2011年11月16日

子どもがもっている大人にはない能力

この間、2歳半くらいの子と公園に行った。わが家に養子として迎える予定の女の子である。現在市内の乳児院で養育されている。私はどんぐりを一緒に拾おうとか、紅葉した楓のはっぱを見せてあげようなど、いろいろ「経験させてあげる」ことを考えていた。私自身その乳児院で保育士として働いていた経験があり、施設の子が圧倒的な経験不足であることを知っていたからだ。まずは、お店デビューだ、とばかりにミスタードーナツへ連れて行った。緊張した面持ちで、ストローを珍しそうに触っていた。ストローでミルクを飲むことはできず、コップに移し変えてあげた。隣の席に、同じような年頃の男の子がいて、その子のリラックスぶりと対照的だった。だんなは、こういうとこ慣れてないんやな、これからもっと連れてきてやらんとな、と言っていたが、私はその考えにちょっと疑問を感じた。3歳にもならない小さな子がレストランなどで、無邪気にはしゃげるのがそんなにいいことだろうか?乳児院に勤務していた頃も、職員間では、おうちの子はもっと遅くまで起きているだの、もっと市販のお菓子を食べている、だから施設でも規制を緩めるべきだ、いや、それはよくないなど、議論はされていた。子どもの成長に必要なことは家庭であっても施設であっても同じだと思うが、「施設=悪い、家庭=良い」という単純な図式がまかり通っているように思う。施設における問題は、今やそのまま家庭における問題となっている、と思う。例えば施設では、どうしても人手が足りず、世話が行き届かない。愛情不足はいたしかたがない。だが、これは家庭であっても同じではないか。物質的に恵まれても(この点、今は施設でもそれほど欠乏していない)精神的に孤独な子どもは多いと思う。施設=かわいそう論は根強いが、そうではないのだと言いたい。今回書こうと思っていたのは、このことじゃないのに、導入部分で長くなってしまった。
公園でのことである。どんぐりを拾って、どんぐりだよって見せると受け取るのだが、落ち葉など他のものを見せると、もっていたどんぐりをポイって放ってしまうのだ。長い間保育士の仕事から遠ざかっていたので、忘れきっていたが、この月齢だと、まだ両方受け取ることができないのだ。3歳を過ぎると、もう一方の手で受け取ったり、ポケットに入れたり、他の人に「これもってて」ってお願いしたりするのだが。自分では持ちきれないのに、いくらでも欲しがるのが人間である。だが、生まれついてのものではないのだ。成長することで得る能力なのだ。能力があることが必ずしもいいとはいえないよい例である。新しいものを得たら、持っていたものを躊躇なく捨てられるなんて、これはすばらしい。子どものもつ能力と大人の持つ能力は違うものらしい。
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2011年09月09日

紙を捨てよう!旅に出よう!

週刊ブログテーマ
今回のテーマ:捨てられないもの

裏面が白い紙とか、プレゼントを包んだリボンとか絶対に捨てられません。おばあちゃんと一緒です。最後にはゴミになるんだから、最初っから捨てとけばいいのに…と思うかもしれないけど、意外とゴミにはならずに役に立つんです。まず白い紙はメモ用紙は当然として、とじてノートにしたり、きれいならコピー用紙にしたり、とにかく役に立つんです!白くない紙はまな板として使って、あとは生ゴミとして捨てればよく燃えるしいいんです!実は、あっさり捨てられるものを挙げたほうが早いくらい物はなんでも捨てられません。本なんかだと大事なところをビリビリ破いて、他のところを捨てます。昨日図書館で借りてきた『「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱という本に、オリジナルCDを捨てるワンピース世代というのが載っていました。CDを買ってきてパソコンにおとしこんだらそれでオッケー、オリジナルは邪魔になるだけだから捨てるそうです。ジャケットを捨てる派の著者もさすがにびっくりしたと言っています。私はワンピースどころかガンダムでもなく、戦前派・おばあちゃん世代のようだ。でもホントはこれよくないと思う。もったいないとか、リサイクルとか言ってるけど、おばあちゃんたちの時代とは明らかに違う。おばあちゃんたちが物を捨てなかったのは、物がなかったからだ。捨てたら終わり、代わりがなかったからだ。私はどうだ?買ってくるいっぽうで捨てないから大変なことになっている。頭の中も同じだ。人生も一緒だ…とりあえず、紙捨てるか…そいで旅にでも出るか
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2011年07月18日

子どもの「ためす」という行為について

乳児院(3歳未満の子どもたちの児童養護施設)に勤務していた頃、子どもたちの行動に対し、「ためす」という言葉がよく使われた。文字どおり、子どもが大人を試すことなのだが、私にはこれがよくわからなかった。3年半の勤務経験しかなく、担当した子どもの数は二人だけだったからかもしれない。20年以上勤続のベテラン保育士はいわゆる「問題ありの、育てにくい」子どもを担当しており、いつもその子に「試されていた」。私にはそれが「ためし」であるということがわからなかったが、その保育士は常に「この子は私を試している」と言っていた。具体的にどういう行為かというと、泣き喚く、頭を壁や床に打ち付けるなどの自傷行為、他の子どもへの暴力などである。あたかも大人がどこまでガマンできるか、どこで切れるかを試すかのような執拗な行為だから、「ためす」というのだろう。エネルギーの全てをそういったことに向けているように見える。乳幼児だけではなく、小学生や思春期の子ども、あるいは大人にも見られる。だが、なぜ?まだ信頼関係ができていない相手に対して、この人はどこまでOKなのかを試すのはごく普通のことに思える。私だって新しい職場では、上司や同僚に対し警戒し、ちょっと試し行動をとったりもする。だがあくまでも、ちょっと。基本はおとなしく、周りを注意深く観察し、徐々に自分を出していく。なぜって、そのほうがラクで得だからに決まっている。相手のガマンの限界を知るために、非常識なことをしたり、相手を逆撫でするようなことを言ったりしては損だからだ。そんなことにエネルギーを使っていたら、仕事に差し支える。そんなことしないほうがよっぽどいいのだ。にもかかわらず、やるとしたらどういうときだろうか?おそらく、相手に対して徹底した不信感があるときだろう。全エネルギーを費やして、自滅してでもその相手に向かっていくだろう。子どもももしかしたらそうなのだろうか?「徹底した不信感」の原因が自分にあるにしろ、相手にあるにしろ、そこがポイントのような気がする。子どもに原因がある場合は多いと思うが、大人にはない、というか、仕事でやっている場合、そう思わないことには続けることができないのだろう。言葉ではどれほどいいことを言っていても、あるいは行動もそれなりに伴っていても、本心が違うことを見抜くのはそれほど難しいことではない。特に子どもは本能でわかるみたいだ。「ためす」子どもを大人は嫌がるが、本当に嫌なのは、試されることだろう。
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2011年07月16日

親と子の関係

里親会主催のふれあいバーベキュー大会に参加した。私たち夫婦はまだ一度も里子を預かったことがない。話は何度かあったのだが、やれその年頃は難しい、やれ家が狭い、やれ個室が用意できないなど色々と理由をつけて断わっていたのだ。要は自信がなかったのだが。なので里親の集まりにもなんとなく出づらくて、里親会とはあまり関わりを持っていなかった。去年だんなが、一度くらいは出てみよう、少しは他の里親さんとも話をしてみたいと言うので、出てみたのだ。人の話を聞くのはとても面白く、参考になった。児童相談所の職員と話ができるのもこういう場だからこそ。二人ともちょっと楽しくて、出てよかったねとなった。去年は初めての参加で、あまり子どもたちと遊べなかった。今年はシャボン玉など私の好きな玩具があったので、(東京ではシャボン玉カフェとかいうものができているらしい。ほんとだって!日経新聞に載ってたもん!)いっしょに遊んだ。バーベキューでは表情の硬かった女の子がすごく楽しそうにして遊んでいた。小さな子たちはなぜか私には水をかけていいと思っていて、水鉄砲で撃たれまくった。子どもたちと走り回って遊んで、すごく楽しかった。子どもは遊ぶ相手として申し分ない。遊ぶだけならこれほど楽しい相手はいない。私が保育士の仕事を続けられなかった理由がわかった。親になれない理由もわかった。教育やしつけができないのだ。子どもとバカ騒ぎをして遊んでいたいだけなのだ。大人としての責任を果たせないのだ。子どもには遊び相手も必要だが、教育者も必要なのだ。このことがわかっていないのは私だけではないようだ。友人たちはみな、子どもとは友達のような関係でいたいと言う。友達はいくらでも作れるが、親はこの世に一人だけ(二人か)。なぜ親が子どもの友達である必要があるのか?友達には責任がないからだ。そこまで深くは考えていないのだろうけど、親としての責任に欠けるのは確かだ。だが、40、50も過ぎると、子どもと友達のような関係というのは別の意味で重要になってくる。なぜって、その歳になると子ども以外に友だちがいないからだ。子どもに見捨てられたら親は一人ぼっちなのだ。この世でただ一人の友達が自分の子どもなのだ。そういう親の介護を子どもはしなくてはいけないのだ…
posted by ゴブリン at 21:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

初泳ぎ

近くの白尾海岸で初泳ぎをしてきた。ほんの30分ほどであったが、往復1時間自転車をこいだおかげで、腕も脚もすっかり日に焼け、ヒリヒリしてかゆい。土曜日なので客はまあまあいた。あまり人気の浜ではなく、土日でもゆうゆうと泳げるのが気に入っている。波は少しあったが、海中が濁るほどではなく、クロールの息継ぎにもさしつかえない程度でちょうどよかった。途中のコンビニでガリガリくんを1個食べて休憩してから泳ぐのが習慣となっている。10年ほど前から夏のあいだはこの海岸で泳いでいる。保育の専門学校でクロールを習得したのがきっかけである。いつなんどきどのようにして覚えたのか知らないが、私は平泳ぎがわりと得意で、それで十分と思っていた。特に泳ぐのが好きというわけでもなく、たまに海水浴する程度だった。保育課程では、クロールと平泳ぎの両方ができないと単位がもらえなかったので、3日間の講習でなんとかクロールをマスターした。意外と難しくてなかなかコツがつかめず、講師からはさじを投げられていた。なので最後に泳げたときは本当に嬉しかった。せっかく覚えたクロールを忘れないようにしようと、最初は遠くの市営プールまで行っていたのだが、あまりの遠さにくたびれて、海に場所を移した。水は塩辛いし、波はあるし泳ぎにくいな〜と思ったのもつかの間、すぐに慣れた。あるとき久しぶりにプールへ行ってみた。さぞ泳ぎやすいだろうと期待していたが、違った。波はなく、水も塩辛くないのだが、全然泳ぎやすくなかった。水がやけに思いのだ。服着て泳いでるみたいに思いのだ。真水って重いんだな。それ以来プールには行っていない。海はいつも危険と隣り合わせで、常に自分の位置を確認していないといけない。沖のほうを見れば恐怖と孤独に襲われる。実は私はすごく怖がりで、足がしっかり底に着いていないとパニックになる。どんなに波が高くてもどんなに潮の流れが速くても足さえ底についていれば大丈夫なのだ。気を抜けば命を失う場所で、しっかりと自分の位置を確認しながら波に揺られて泳ぐのはほんとうに楽しい。
posted by ゴブリン at 20:39| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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